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<2011年12月30日>

戦後の閉幕と震災後という時代の開幕
 
67年という戦後の時代が終わった。そして新たな「震災後」という時代が始まったと思う。物理的な復興という問題の解決にも気の遠くなるような時間が必要になるであろう。のみならず、私共が持っていた物の見方、考え方、あるいは価値観といったものも、震災という体験を経て微妙に何かが変化してきているのではないかと思う。電気エネルギー、ひいてはそれに依存する社会の在り様、大仰に言えば、文化そのもの変容も僅かずつではが起こり始めているのを皮膚感覚として感じる。後世、この時代が「エポックメーキング」な時期であったと振り返られる時代がくるのではないか。そう思う。

 それにしても、その時代の終わりと始まりに「放射能」という物質が深く関与したことは、奇妙な符合としか言いようがない。地球が誕生して46億年。クロマニヨン人が出現したのは4万年前。マンハッタン計画の成功をもって人類が「原子力」というエネルギーをもったとすれば、その歴史はわずか67年。その年広島、長崎が被弾し「戦後」が始まった。(標題からははずれるが、むろん広島、長崎、沖縄にとって、未来永劫に戦後は終わらない。別の意味での新しい時代の始まりである。)福島原発の事故は、長い人類の歴史のなかのほんの数十年という一瞬の年月のなかで、地球のあちこちに「アンタチャブル」なピンポイント地域が作り出されていることを教えてくれた。46億年もの間、この地球には存在しなかったポイントである。4万年後、SF的にいえば、今の人類がクロマニヨン人の世界に逆戻りしているのか、別の人種に進化しているのか、だれにもわからない。しかし多分「核のゴミ」は4万年後にも存在しているであろうし、その時代の人類にどのように情報伝達されているのか、考えても詮無いないことではあるが気になる。もっとも、来年のことを言えば鬼が笑うというのに、年の初めに4万年後のことをいうのは野暮で鬼も笑いように困っているかもしれない。が、しかし、いったんはまるといささかやりきれないテーマではある。「人類の叡智」というやつがこれらもろもろを解決するのだろうか。想像すらできない。

 この時代に生まれ存在していることを、奇貨とするしかあるまい。悲観も楽観もしない。新しい時代の始まりに医療人としてできることを粛々とやっていくしかない。

<2011年6月>カレー考

 病院に勤務していたころ、「栄養管理室長」なるものを仰せつかった。時の院長が、筆者を大の「グルメ」だと思い込んでいたためらしい。病院食とグルメがどう結びつくのかよくわからなかったが、断る理由もなく引き受けた。

 旨いものは好きだしそのための努力も惜しまぬが、真のグルメは「粗食にも耐える」というのが筆者のポリシーである。旨いのまずいの言わない。23週間ぐらいなら、筆者も粗食に耐える。その意味では院長が筆者をグルメと思い込んでいたのも、あながち間違いではない。戦後間もないころ、獅子文六という作家が、文筆活動をしながら各地の旨いものを食べ歩いた。今でいう「グルメ」のはしりである。ある時、「何が一番美味しかったですか」と人に聞かれ、文六の答えは「ひじきの煮たの」。作家らしい揶揄かもしれないが、妙に納得したものだった。

 さて、栄養管理室長の仕事だが、病院食の試食とその評価。そして、年に何回かの入院患者さんへの病院食に対するアンケート調査。これが面白かった。一般のメニューでは、だいたいどれも標準的な正規分布を示す。つまり、「美味しくない」「あまり美味しくない」が20%程度、「普通」「まずまず」が60%、「美味しい」が20%程度といった具合。これがカレーだと様相がかわる。「あまり美味しくない」と「普通」に2極分化する。「あまり美味しくない」という比率が高くなるのだが、興味深いことに全体としては一般のメニューより、「残食」が圧倒的に少なくなるのである。しばし考えた。カレーには個人個人それぞれに思い入れがあるのではないか。昔、家で食べたカレー、母親(あるいは父親)の作ったカレー、はたまた自分で作ったカレー、等々。カレーには、舌と頭に残る味があるのではないか。「いやいや本当のカレーはこんなものじゃない」「何かたりない」「あれを足せばもっと旨くなるのに」などと腹の中で考えながら、患者さんたちは病院のカレーを食べていたのではないか。病院のなかだけの話ではない。カレーを語ると、途端に「一言居士」になる人間は、みなさん方のなかにもたくさんおるのではあるまいか。

 昔、ひとり身の時代、同僚や仲間を呼んでよく「カレーパーティ」をやった。筆者のカレーは、玉ねぎカレーである(漫画家、古谷三敏氏の「男の料理」に準拠する)。一人分、中ないし大の玉ねぎ1個を短冊に切り、とろ火で小一時間炒める、焦がさぬように火加減が肝要。プロの腕前、トロビアンである。きつね色になったら取り出し、あとは型のごとく肉塊を強火で炒め、ブイヨンのスープが入った大なべに玉ねぎ、肉を投入。これから先、また小一時間コトコトと煮詰めていく。脇役の人参やジャガイモは適切な時に加える。適切な時が大事なのである。ここで、カレーの具が「しっかり派」と「すべてを溶かしこんだスープ派」に分かれるからである。筆者はどちらかと言えば後者。ただ、ジャガイモだけは、崩れて溶け込んでしまうとスープの味が妙なものになってしまう(と思う)。メークイン以外のジャガイモは用心。ルーは甘口3、辛口7くらいの割合。最後に少量の酢を入れたり、りんごのすりおろしを溶かしこんだりする向きもあるようだが、この手の裏技は筆者は用いない。市販のル―を使わず、レシピをみながらコショウやトウガラシ、チョウジ、オ―ルスパイスなど多種のスパイスを買い込んで、カレールーの作成にチャレンジしたこともあったがうまくいかなかった(まずかった)。商品として売り出しているカレールーには足元にも及ばず、その完成度の高さに脱帽せざるを得なかった。さて、「パーティ」のほうだが、炒めて1時間、煮て1時間、およそ2時間近くも馬鹿らしくて付き合っていられないので、この間、時にフライパンやなべに手を出しながらビールの1本や2本は空ける。仲間にも麦やら米やらのアルコールをたっぷり勧める。2時間もすれば頭も舌も痺れてくるので、ここで辛くて熱いカレーが登場すれば、まずいと言うはずがない。ポイントといえばここが最大のポイントである。

 カレーの発生の地は、周知のごとくインド。インドの宗主国であったイギリスは、そのカレーをスパイスとして本国に持ち帰る。「カレー粉」の誕生である。余談になるが、明治維新後の国防は、おおざっぱに言えば、陸軍はプロシャ(ドイツ)をモデルにし、海軍はイギリスをモデルにして形成されていく。陸軍は、薩長土肥を中心とした既存の人脈や組織を基礎にして成長するがやや固陋な気配があった。一方、明治政府は海軍と呼べるものは全くもっていなかった。長い江戸期の鎖国状態のなか、造船という技術は厳しく制限された。何しろ500石以上の船をつくることさえが御発度であったわけだから。ただ、一から作りあげることは、何のしがらみもない、陸軍にはない進取に富んだ雰囲気を海軍にもたらす。教師として、イギリスは適任であったといえる。ロシアのバルチック艦隊を打ち破った当時の連合艦隊の旗艦「三笠」は、イギリスで造られた。その先任参謀であった秋山真之もイギリス滞在が長く、戦略・戦術はきわめて合理性に富むものであった。ここで、「海軍カレー」が生まれる。イギリス人がインドから持ち帰ったカレー粉と小麦粉を炒めあわせカレーのルーとする。長い海上生活を送るにあたって、これほど栄養価が高く、保存性がよい食品はない。

 その後カレーという食べ物が、国民食というほどに民間に膾炙されていく過程はよくわからない。歴史で明らかなのは、1927年(昭和2年)新宿中村屋の「純印度式カリーライス」の登場である。中村屋を興したのは相馬愛蔵、黒光夫妻であるが、もともとは「パン屋」として出発した(1901年)。クリームパンを初めて世に出したのも中村屋である。夫妻は実業家として成功するが、社会事業家というべき顔も持つ。萩原碌山や高村光太郎、松井須磨子などと交流し、そのパトロン的役割を果たす。さらに有名なのは、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースを庇護し匿ったことである。ボースは、イギリスから懸賞金つきで国際手配された逃亡犯であった。ボースが中村夫妻にカリーライスを作り振る舞ったことが、中村屋カリーの原点である。驚くべきことに、というべきだろうが、夫妻の長女俊子をボースの世話役にし、やがて結婚することを認めた。ついでに言えば、その仲人をしたのが頭山満。汎アジア主義的な民族主義者というべき人物だが、こうしたくくりには括れない存在で、その評価も分かれるところがあろう。しかし偏狭な民族主義者でなかったことは、中国革命の父といわれた孫文を滞日中、手厚く支援したことでもわかる。日本にはある時期、こうした国際性に富んだ気骨ある人間たちがいたことをもっと誇りにし評価していい。

 新宿で中村屋のカリーを初めて食べたのは、20代後半のころ。チキンカリーは若造には衝撃的であった。時は巡る。スーパーの店頭には、中村屋のレトルトカリーが並ぶ。2時間もカレー作りにかけることはない。地下のボースの思いはいかんばかりであろうか、知る由もない。

追記

 レトルト食品の登場は、もともと1960年台後半、NASAの宇宙食の開発と軌を一にする。本邦で初めてレトルトカレーが発売されたのは1970年。O社のBカレーである。奇しくもこの前年、人類は初めて月面に降り立っていた。かのアームストロングも、カレーではないにしろレトルト食品を口にしたはずである。

 今般の東日本大震災の被災地でも、レトルト食品の果たした役割は小さくないはずである。レトルトと軽んずることなかれ。もしかすると、人類の食品史のなかで、偉大な発明なのかもしれない。

 

 



<2011年3月31日>(お見舞い)

 今般の大地震、津波で被災された皆様かたに衷心よりお見舞い申し上げます。医院は、とにかく開いておくことが最大の使命と考え、一日の休業もせずに診療してまいりました。今後もこの決意はどんな状況でも変わりません。風評に惑わされず、粛々と日常の使命を果たしていきます。がんばれ日立。がんばれ東北。がんばれ日本。


<2009年8月>(メタボ検診の時代)

I understand,but―――                   

人間は、厄介な生き物だと思う。前頭葉は優秀なソフトだが、クリックの仕方によってはネガティブな創造性も発揮する。

キリスト教では、人間には七つの大罪があるという。映画「セブン」のモチーフにもなった。「淫乱」「嫉妬」「怠惰」「驕慢」「強欲」「激怒」「過食」の七つである。筆者は「過飲」ではあるが、「過食」というほど食べるわけでないから一つは免罪されるだろう。手に入ればイナゴやカエル、スズメなど好んで食べるがこれも「異食」であって罪には当たらない。こだわるようだが。

これが、日本の仏教となるともっときめが細かくなる。何しろ百八つの煩悩があるというのだから、これを全てクリアするのは凡人には至難の業で、ほとんど不可能といっていいだろう。「わかちゃいるけど止められない」のである。ご存知、植木等の「スーダラ節」のワンフレーズである。植木等は戦後の正統派ジャズメンの草分けの一人であった。そうした自負もあり、派手な振り付けをもったこの歌をうたうことに、相当なためらいを感じながら悩む。悩みに悩んだ末に、自分の父親に相談する。彼の父は東京下町のお寺さんの住職であり、かなり厳格な人間だったらしい。のみならず、戦中、僧侶として公然と「反戦」を唱えた気骨の人で、その筋のお世話になることも度々であった。当時、「反戦」を口にすることが如何に尋常なことでなかったか、想像するに難くない。そうした父親である。当然反対されるものと考えていた。ところが父親の反応は全く違っていた。「これはすごい詩だ。是非歌いなさい。わかちゃいるけど止められない、これが人間だ。この詩を作ったのは誰だ?」驚きながらも植木等が答える。「青島幸男」。当時20歳後半であった青島幸男が、人間の本質をこのフレーズに込めたのかどうかは、知らない。とりあえずおく。ただ、鋭敏に感じた人間がいたことは事実である。

 話がとぶ。浄土宗と浄土真宗(真宗)のことである。阿弥陀仏に帰依し極楽浄土に往生することを願うことは同じでありながら、「南無阿弥陀仏」の意味合いは両者でやや異なる。浄土宗にあっては、ただただ「南無阿弥陀仏」を唱えることによって、浄土への生まれ変わりを祈念する。真宗では、すでに万人が阿弥陀仏によって浄土への救済が約束されている。「南無阿弥陀仏」はむしろ、「報恩」「御礼」のことばとして唱える。真宗の開祖、親鸞によれば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」である。善行を尽くし、仏法の修業に勤しむ人(善人)が救われるのは当然のこと。対極に日々、飢えれば肉を食らい、魚を食し、悪行に手を染めざるを得ない生活者、庶民(悪人)がいる。こうした悪人でもすでに救われていることが、真宗の真骨頂である。親鸞という人は妻帯をし、自ら「非僧非俗」(僧にあらず、俗にあらず)と称した。親鸞の弟子であった唯円は、親鸞の言葉としてこんなエピソードを紹介している。唯円が尋ねる。「人が皆救われ、あの世に行けば極楽浄土が待っているのに、歳を重ねても私は少しも楽しい気分になれません。何故でしょう。」親鸞が答える。「唯円、実は私もそうなのだよ。」親鸞は考え、悩み続け、そして答えを出さずに逝ってしまった。

(このくだりは、筆者自身の個人的理解による。)

話がもどる。憶測をすれば植木等の父親は、「真宗」の僧ではなかったか。同じ匂いを感じるのである。

 我々は、職業柄、人間のさまざまな「生活習慣」に踏み込む。その困難さは誰もが感じていることだと思う。筆者も医者に成り立てのころ、60台の女性の食事指導をしていて、強烈な反撃をくらったことがある。「先生、そうは言っても私らの子どものころは戦中戦後で何もおいしいものはなかった。今、子どものことも手が離れ、やっと自由に好きなものが食べられるようになったんですよ。」それは、そうだ。プロとしては甘いのかもしれないが、ノックアウト負けである。切ない思いだけが残った。

 メタボ健診まっさかりである。「生活指導」という医療行為に潜む「残酷性」。その毒を薄め、有用性の高いものにするのは、たぶん医師の高度なスキルであろうと思う。

 人間とは厄介な生き物、「わかちゃいるけど止められない」のである。





<2008年8月>「山下りんの時代」を少し考える

イコン画家山下りんのこと

  山下りんとイコン画のことを知ったのは、彼此17,8年ほど前のことになる。本県笠間市にある日動美術館で、山下りんのイコン画を観た。山下りんは、笠間市生まれの日本で初めての女性のイコン画家である。

 笠間市は、江戸後期、譜代牧野氏の城下町であった。山下りんは牧野氏の下級藩士の家に生まれた。幕末1857年のことである。ついでだが、牧野氏以前の笠間の領主は浅野氏であり、2代目の時代に播州赤穂に移り、4代目に内匠頭長矩が出る。「忠臣蔵」の一方の主人公の一人である。りんの実父は、りんが6歳の時に亡くなり、家は当然に困窮する。絵を描くことに対する欲求は幼少時から強かったらしく、りん16歳にして家族を説得し、絵の修業のため上京を果たす。当時とすれば尋常なことではなかったと思われる。当初、浮世絵や日本画の修業に勤しむがあきたらず「工部美術学校」に入学し洋画を描くことを志す。これも女性として初めてのことである。時は明治に入り、官民こぞって欧米化を志向する時代であった。りんの入学した学校も明治政府の「工部省」(現代風に言えば文部科学省か)に作られた公立の美術学校であった。

 話はとぶが、おおざっぱにキリスト教の3大宗派といえば、カソリック、プロテスタント、東方正教会(ハリストス正教会)の3つである。東方正教会は、ヨーロッパ北方に向かって布教活動を進めロシアの国教として根付く(ロシア正教)。その大司教ニコライが開港間もない函館に赴任し、函館復活堂の司祭として布教活動を開始するのは1861年のことである。やがてその布教活動の拠点を東京神田に移すが、ニコライの日本滞在は約50年におよぶ。1891年(明治24年)神田駿河台に建てられた大聖堂は、ニコライ堂とよばれよく知られている。工部美術学校で洋画を学んでいた山下りんが、ニコライのもとに出入りし正教会の洗礼をうけた経緯は省く。おそらく、ヨーロッパ絵画への強い憧憬も動機の一つであったであろうと思う。25歳時、りんはニコライの推挙により渡露し、露都ぺテルスブルグの女子修道院に入りイコン画の修業を始めることになる。ただ、彼の地での滞在はりんにとって甚だ精神的苦痛の多いものであったらしい。言葉の通じないストレスもさることながら、イコン画そのものに対する疑義も強く感じていたようである。その思いは当地の「エルミタージュ美術館」に展示されていた、圧倒的量感をもつ「イタリア画」を見るようになっていよいよ強くなる。次第にふさぎこむようになったりんは、自分の描くイコン画を「オバケ画」とさえ呼ぶようになる。そのあたりの事情は、りん自身がメモ風に書き綴った「滞露日記」に詳しい。病的にまで落ち込んだりんは、3年足らずで帰国の途につく。

 イコンとは言うまでもなく、キリスト(ハリストス)や聖母、聖人の肖像画であり、神の世界を描く。鞠安日出子氏は著書「イコン」(日貿出版)のなかで、イコン画はそもそも異次元の世界を描くものであり、決して3次元の描写にはならず立体像にはなり得ないと述べている。平面画であることがイコン画の本質とも言える。ついでに言えば浮世絵や古来の日本画も平面画であった。このことは、近代洋画への思いが強かったりんの「苦痛」を理解する上で大きな鍵であろうと思う。皮肉なことに、後にこの平面画はゴーギャンやゴッホなどに強い影響を与え、ジャポニズムとして開花する。ロシアのイコン画に学べ、と言ったのはアンリ・マティスであった。無論そのことは当時のりんは知る由もない。

 しかし30台に入ったりんは、神田の神学校の宿舎にこもり、あれほど嫌ったイコン画の作成に没頭するようになる。その数300点にのぼるとされ、全国各地に竣工された正教会に懸架される。神田ニコライ堂に懸架されたイコン画は惜しいことに関東大震災で焼失した。函館正教会の「十二大祭図」は著名である。

 筆者は無宗教であり、イコン画の本質など理解できようはずがなく、また、その審美眼にいたっては素人そのものである。その上での感想になるが、りんのイコン画に登場する人物は、一般のイコン画のもつ二次元の無機質な印象とは異なり、ふくよかな丸みを感じさせる。量感と言ってもいい。イタリア画に憧れたりんの独自のイコンの世界なのかもしれない。60歳をすぎたりんは、白内障を患い、弟の峯次郎をたよって故郷の笠間に引きこもる。以後、絵筆をとることはなかった。現在、店頭に並ぶ「美術辞典」「美術大鑑」といった書物に「山下りん」の名は見出せない。川又書店刊の「茨城の画人」にもその名は出てこない。宗教画という特殊なジャンルとはいえ、山下りんの残した業績は、本邦の美術史のなかでもう少し光があてられていい。笠間に住んだりんは、好きな酒を毎日2合ほど飲んでいたという。2合の酒の中で、晩年のりんの頭の内をよぎるものは何であったのか。思えばやや感傷的になる。

 りんが起居した隣地に「山下りん資料館」(白凛居)(写真)がある。山下りんの業績の研究は、弟峯次郎の孫、つまりりんを大叔母にもつ小田秀夫氏によるところが大きい。小田秀夫氏の娘にあたるかたが、昨年(つまり、りん生誕150年)白凛居を建てられた。館内には、開設時北海道中標津町の上武佐正教会から寄贈されたイコン画や、数点のイコンの下絵、ロシアでの模写画、「滞露日記」などが所蔵されている。
 稲荷神社と陶器のまち、笠間市である。

(日立市役所 保健福祉部 笠間市出身の畑山一美氏にご助言をいただいた。)

 <参考にした図書>(本文中で紹介したものは除く)

 「山下りん」(大下智一、ミュージアム新書)
 「白河・会津のみち、赤坂散歩」(司馬遼太郎、朝日文庫


<07年7月10日>「司馬遼太郎の時代」
昔から司馬遼太郎のファンであった。彼の主要なテーマの一つは「日本とは何か、日本人とは何か、特に現代の」というものであったと思う。他界して久しいが今なお司馬遼が考え、提起した問題は輝きを失ってはいない。司馬遼の時代は続いている。
 「司馬遼太郎とアイルランド紀行のことなど」について書く。

司馬遼太郎(以下、「司馬遼」)のファンは多い。そして、そのファンにはどうも共通の匂いがあるようである。一昨年、滋賀県で行われた、あるリウマチ講演会に招かれ講演した。もう一人、関西地区の某医大の先生も招聘されており、2人で2講演というスタイルであった。講演会終了後、意見交換会の場でその先生とお話していると、どうもこの先生が怪しい。「もしかすると先生は、相当司馬遼の本をお読みではないですか」と問うと、「はい」と短く答えられた。彼の先生も、筆者に同じような「匂い」を感じたらしく、その後、司馬遼の話題で多いに盛り上がった。司馬遼の肩書きを「小説家」とだけするのは、やや違和感がある。鳥越俊太郎は「思索家」と呼んだ。規定の仕方はどうでもよい。しかし、司馬遼の博識、知識の深さ、広がりには驚嘆するほかはない。「思索家」と呼ぶに足るものがある。「哲学」というほど硬くもない。「知の巨人」という形容は、南方熊楠、最近では立花隆あたりに冠せられるが、司馬遼をそう呼んでもあまり異論はないのではないか。少なくとも筆者程度の人間のもつ「知の欲求」を、十二分に満たしてくれる。のみならず、「思索」する材料と道標を提供し、教えてくれる。良質な知のエンターテナーとして秀逸である。

 「愛蘭土紀行」(T・U)(朝日文庫)は、「街道をゆく」シリーズの第30と第31の2冊から成る。ちなみに、第1冊は「甲州街道、長州路ほか」であり、第43冊「濃尾産州記」で終了する。正確には、まだ続編の予定があったが、司馬遼は道半ばで他界し完結できなかった。周知のとおり、「街道をゆく」は、1971年から「週刊朝日」の連載紀行文として始まった。当時、何回か拾い読みし、「これは偉いやつだ」などと生意気にも感じていたことを思い出す。このシリーズの大部分で司馬遼と行動をともにした須田剋太画伯の挿画も魅力的だった。単行本として世に出るのは1993年のことである。

 <アイルランドという国のかたち>

 アイルランドの沿革を語るとすれば多数の切り口があるに違いない。主要なものを一つ言えば、彼らがゲルマン系でもラテン系でもないということであろう。ケルト人である。ケルト人はヨーロッパの中西部に住んでいた先住民族である。古代ローマが今のフランス共和国に攻め入り、先住民族であるケルト人を征服する。「ガリア戦記」に有名である。古代ローマでは、ケルト人を「ガリ」と呼び、その地をガリアと呼んだ。征服されたケルト人は、多くはローマ人と混血したが、一部はイギリス本土のグレート・ブリテン島に残った。ついで、イギリスの西隣に浮かぶ北海道ほどの大きさのアイルランド島にも残った。

シーザーは、イギリス本土には上陸している。しかし、アイルランドには渡らなかった。アイルランドを考えるとき、「古代ローマが来なかった、という認識から出発せざるを得ない。今でもシーザーも来なかった島、という言い方がある」。(本文より)つまりは「ローマナイズ」されなかった地域である。偉大なローマ文明が来たかどうか、「ローマナイズ」されたかどうか、そのいわばステータスにも似た感覚は、ヨーロッパ人の精神的芯の中に中華的感覚の遺伝子として引き継がれているようにみえる。司馬遼はそのことを、複眼的に論述しているが、ここではこれ以上触れない。シーザーがアイルランド島に渡らなかった事実は、彼がアイルランドをあえて征服する意味を感じなかったと考えざるを得ない。肥沃とはいえない土地環境、厳しい気象条件、そして島を取り巻く海原、シーザーといえども食指が動かなかったに違いない。

 「ローマナイズ」ということばは、カトリックの歴史で使われる場合、もう一つの意味を持つ。その地域のひとびとがカトリックになった場合、「ローマナイズされた」というらしい。アイルランドには、シーザーは来なかったが、ローマに本山をおくカトリックはやってきた。今でもアイルランドは、カトリック教国である。このことのために、アイルランドとイギリスにとって、とくにアイルランドにとって不幸な歴史が始まる。現代までIRA(「アイルランド共和国軍」)とイギリス本国との紛争が続いているのは周知のとおり。始まりは、1649年英国国教会のクロムウェルの侵攻である。軍人にして清教徒革命の指導者であるクロムウェルは、アイルランドを「ピューリファイ」することに何のためらいも感じなかったに違いない。アイルランドに上陸したかれは、「−−アイルランド人の土地をうばって英国のプロテスタントたちに分配し、アイリシュ・カトリックを小作人にした」。「強烈な正義体系の徒が、反面は聖者で反面は悪魔であるという証拠をクロムウェルは典型として演じた」。(本文より)結果、アイルランド人は、西部のより不毛な地域に強制移住させられる。ケルト的心性とさらにはこの「アイルランド西部」で生きることによって、不屈の「アイルランド魂」というべき性格が形成される。「依怙地さ、孤独、ーー目的主義、自己への信仰、他との不調和、勝利への確固たる幻想ーー」(等々)(本分より)というふうに、司馬遼は分析してみせる。もとより、「国民性」と称するものは、常に「アンビバレンツ」であり、負のベクトルを持つ分、正のベクトルも合わせ持つ。こんなエピソードを紹介している。ビートルズが初めてアメリカ公演をした際、アメリカ人記者から意地の悪い質問を受ける。「ベートーベンをどう思う」。アイルランド系イギリス人のリンゴ・スターが答える。「いいね。とにかく彼の詩がね」。ダーティハリーのハリーキャラハンは、アイルランド系アメリカ人として描かれる。目的のために手段をえらばないところがある。上司とも衝突する。しかし、反社会的ということではない。架空の人物だが、「アイルランド系」ということでアメリカ社会では了解されているふしがある。「風とともに去りぬ」のマーガレット・ミチェルもアイルランド系である。女主人公スカーレット・オハラはアイルランド的激しい個性と闘争心で全編の人間関係を引っぱってゆく。

 「オ」が姓に間に入る名は、アイルランドに特有である。ドイツ語の「フォン」、フランス語の「ド」、スペイン語の「ドン」にあたる。ヘルベルト・フォン・カラヤンであり、ド・ゴールであり、ドン・キホーテである。劇作家ユージン・オニール、女優モーリン・オハラなどアイルランド系である。話はそれるが、以前レンタルしてみた映画「ロード トゥ パーディション」。アイルランド系マフィア社会を描いたものでA級映画とは言いがたいが、登場する役者がトム・ハンクス、ポール・ニューマン、ジュード・ロウとくれば、一見の価値はある。この映画に登場する組織の名が「オニール商会」。ピーター・オトールとかライアン・オニールなどもアイルランド系なのであろう。

 アイルランドは、まことに外国への移民の多い国である。「アイルランド島の人口がわずか300万であるのに対し、アメリカ合衆国でのアイルランド系は4000万ともいわれている。」(本文より、1987年当時)この4000万のなかには、アメリカ映画の原型を作りあげたジョン・フォードがいる。ジョン・ウェインもアイルランド系であった。フォードが監督しジョン・ウェインが演じる人物のキャラクターもみごとにアイルランド的といわねばならない。フォード監督は、後年「静かなる男」をアイルランドをロケ地として撮り、オスカーを手にする。勝手な憶測をすれば、「アイデンティティ」を求める映画だったのかもしれない。ケネディ家もアイルランド移民であった。ジョン・P・ケネディのときに財をなし、その次男ジョン・F・ケネディは、はじめてカトリック教の人間として大統領になる。

「彼が大統領になったことは、アメリカの人種的薄い膜を破ることになった。」(本文より)

アメリカの節目は、ホワイトにして、アングロサクソンにして、プロテスタント、いわゆるWASP(ワスプ)であった。もう一人、アイルランド系移民の中から大統領が生まれる。ロナルド・レーガンである。筆者には、アイルランド系であったケネディとレーガンが、何か「アイルランド的個性」をもって政治をしたのかどうかはわからない。ついでに言えばケネディ暗殺についても。しかし「アメリカ学」が存在するとすれば、WASPとアイルランド系カトリック社会という2つの機軸をみていかねばならないようには思える。司馬遼は本シリーズ第39冊「ニューヨーク散歩」でも、そのことに触れている。

<妖精の地としてのアイルランド>

「アイルランドには資源はないが、妖精だけはいっぱいいる。これほどの妖精大国は、EC諸国のなかにはないのではないか。」(本文より)ゴブリンとかブラウニーとかフィノデリーとか、個性豊かなキャラクターの妖精、小人(ノーム、gnome)がいる。なかには、個々が勝手に(?)人の名をつけた妖精もいる。「「おれの家の屋根裏には、ニッキー・ニックてやつがいるんだぜ。やつは笛を吹くんだ。」こうなると、ややついていくのに苦労する。

レプラコーンという妖精は、インターナショナルに名の売れた妖精といえる。ちゃんと「ウキペディア」にも紹介され解説されている。「この連中の一日は、日が落ちてからはじまる。ただ、厄介なことに、かれらというのは、私どもが信じなければーー信じるという無垢の光」(本分より)がなければ生存しえないのである。「かれらに光をあたえつづけているひとは、もはやヨーロッパでもケルト人(とくにアイルランド人)だけではないかとおもえてくる。何といっても、19世紀末、アイルランド人は、民族の魂をとりもどすための文芸復興運動に、かれら妖精たちの力を借りたほどである。」(本文より)

 アイルランドを代表する詩人W.B.イェイツはそのころ登場する。「ケルト妖精物語」や「ケルト幻想物語」に結実する。イェイツがアイルランドでしたことを、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)ははるか日本に来て日本の神々と付き合い成し遂げた。妻小泉節子の語る怪談話に聞き入り、日本に帰化するまでにのめりこみ、短編小説集「怪談」を発表する。ハーンは放浪を続けたアイルランド人でありイェイツと同時代の人だった。

 時代は遡るが、もう一人ジョナサン・スウィフトもはずせない。スウィフトを厳密にアイルランド人というのには問題があるかもしれない。彼は、イングランド生まれであるが、クロムウェルに反抗し、アイルランドに移住する。「ケルト的霊性」に触れ、共鳴する。もともとの彼の属性のなかにすでにそれらが存在していたのかもしれないが。「ガリバー旅行記」で、巨人とノームを見事に対比してみせる。

 それにしても、カトリックという絶対的宗教をもちながら、かほどさように妖精が息づいているのも奇異といえば奇異である。このへんの事情は、わが日本と似ていなくもない。ただ、少なくとも現代日本に絶対的宗教があるかどうかは甚だ疑わしく、皮肉っぽくいえば、イザヤ・べンダサンのいう「日本教」でくくってもよいような気もする。

 「キリスト教にせよ仏教にせよ、普遍的大宗教によって土俗の神々は窮地に追いこまれる。」(本文より)日本では新道が仏教と折り合いをつけて、たとえば八幡神は八幡大菩薩になったりした。はずれた神々は、天狗になったり河童になったりして生きのこる。そういえば、かの笛を吹くという妖精、ニッキー・二ックは、わが方の座敷童子を連想させる。 

  いずれにしても、アイルランドの妖精たちは幸運であった。

<アイルランド番外編>

 eのあるウィスキーとeのないウィスキー。アイルランドのウィスキーはwiskeyでありスコットランドのウィスキーはwiskyと表記される。ウィスキーは、今から約1000年前にアイルランドではじめて造られたという説が有力である。もともとは、修道院で造られ、医薬用であったいう説もある。出典は忘れたが、司馬遼は別の著作で、アルコール度の高い蒸留酒文化圏では「外科学」が発達した、と喝破している。本邦も含め醸造酒文化圏では確かにそうはならなかった。ただ、「薬学」は発達した。

 さて、番外編というより蛇足である。「千の風になって」のことである。読み人知らず、作者不詳とされるが、アメリカ人女性という説もあるし、ネイティブアメリカンに伝わる詩という説もある。1987年、マリリン・モンローの没後何年かの追悼の際朗読され、また2002年9.11のテロの追悼式典でもジョン・ウェインが朗読した。IRAとの戦いで命を落としたイギリス人兵士の封筒にこの詩が残されていたことも有名である。日本では、かつて「天声人語」で紹介され、昨年、新井満氏により翻訳され曲がつけられてブームになった。新井満氏の指摘を待つまでもなく、この詩は、「死者」のうたであり、アニミズムの色彩が色濃い。それはそうであろう、墓もなかに私の魂は眠ってなどいないし、千の風になったり、光になったり、鳥になったり、星になったりする。アイルランドのことを書いてきたので勝手な想像をする。アニミズムは、原始的社会に生きた人類の共通のDNAの中にあるようにも思えるし、「ケルト的霊性」にも感覚として符合する。作者はアイルランド系のアメリカ人ではなかったか。仮定を重ねることになるが、とすれば、戦死したイギリス人兵士が家族に書き残したこの詩は、別の悲劇性を帯びまことに歴史のアイロニーというほかはない。  



<2006年11月15日>「院長の1カ月」(この10月)
 
ノーベル賞作家(後に辞退)ソルジェニツインの「イワン・デニソビッチの一日」が邦訳されてから、約40年弱であろうか。それにもじって「院長の1カ月」。
10月1日:14日、東京で講演する原稿の作成に追われる。この週、次の週と
      診療の合間、終了後にこの作業に忙殺される。
10月4日:水曜日、当院の休診日だが、午前中は毎週多賀病院の外来。(開
      業以来続けています。)
      午後、上京。日本医大皮膚科での「膠原病外来」。帰宅は深夜。
      (この外来も数年間月1回、第1水曜日午後で続けています。)
10月9日:体育の日で祭日。日立メデイカルセンターの内科系急患当番医と
      して出勤。丸1日。
10月10日:火曜日、昼休み13:30分より日立市保険センターでポリオ接種
       の乳児、幼児の診察。
10月12日:水曜日、多賀病院外来のあと、午後「豊浦の郷」(軽費老人ホー
      ム)での診療。(豊浦の郷の嘱託医をしており、第2、第4水曜の午
      後は診療日です。)
      夜、19時より日立市医師会理事会。(この4月より医師会副会長と
      して仕事をしています。)
10月14日:土曜日、午後休診をいただき、上京。「CRO協会」の主催する会
      で講演。「関節リウマチと診療録の見方」。約90分。
10月16日:月曜、水戸で「国保審査委員会」。(毎月、月の中ごろ4−5日
       間)。診療に穴を空けないよう昼休み、夜診療終了後、車で水戸
       との往復。19日まで。
10月18日:水曜日、多賀病院外来のあと、午後「国保審査会」。
10月23日:月曜、28日に行われる「茨城リウマチ」で口演するスライド作り。
      先月のリウマチの研究会で発表した演題の論文作成。この週は、
      診療の合間、診療終了後にこの2つの作業で忙殺。
10月24日:火曜日、夜、医師会関連の仕事。「市郡医師会役員・県医師会
      役員懇談会」。
10月25日:水曜、多賀病院外来のあと、午後「豊浦の郷」での診療。
10月28日:土曜日、15時診療終了と同時につくば市に。「茨城リウマチ」で発
      表口演。
 多忙といえば多忙。ただ、そのことのために紹介したわけではありません。皆様はドクターに接するのは外来か、入院していれば主治医となるわけでしょうが、それぞれのドクターが、それぞれに多様な仕事を抱えていることを、多少なりとも想像していただければと考えたしだいです。


<2006 年7月1日> 「光の時代」
 エジソンが初めて白熱電球に灯をともしたのは、1987年のこととされているから、考えてみれば我々が手軽に光を自由にできるようになって、たかだか100年余りにすぎない。今や、現代人にとって光と電気のない生活は考えられない。しかし一方、光があふれすぎているのではないかという感も否めない。エコロジーという発想からすれば、我々は光を消費しすぎていることに気づかずにいるとしか思えない。一昔前、つまり私らが子供のころの時代にあっては、こまめに電灯を消すということは生活習慣の一つの「道徳」であった。今や光があることに慣れすぎているのかもしれない。ものがあふれる消費時代にあって、エコロジー、リサイクルという視点からの消費に対する新しい見直しの動きがあるものの、光を節約するということだけはどこか取り残されている感じがする。
 ヨーロッパや北米を旅された方の多くが、たぶん感じられていることであろうが、とにかく街が暗い。部屋の中も暗い。無論、いわゆるネオン街といわれる地域の光と電気のぺージェントはどこの都市も同じ。しかし、日本ほど無制限、無秩序な光と電気の垂れ流しは、他にないのではないかとも思われる。たとえば、パリ。街はおどろくほど暗く、質素である。暗いことによる防犯の問題はとりあえず置く。ネオンや電灯は白色系のものしか認めないという公的な規制と、それを支える人の意識がこの街の景観を保っているといっていい。。翻って我が方はどうであろう。無制限な看板とそれを取り巻く極彩色の光と電気の放流。
 チャールズ・チャップリンは二度日本を訪れている。日本びいきであったチャプリンの、例の有名なステッキは滋賀県製のものであったことは知る人ぞ知る。最初の来日は1932年(昭和7年)。5.15事件に遭遇する。殺害される犬養毅との面談の予定が、他の予定でキャンセルとなり難を逃れたのも有名な話である。二度目の来日は1936年。わずか4年後である。この折、チャプリンはこんなセリフをはいたとされる。「日本の闇はもっと美しかった。」来るべき軍靴の音を敏感に聞きつけたチャプリン一流の暗喩であったのかもしれないが。
 それにして、もう70年前にも日本でもらしたチャプリンの感想をどう捉えたらよいのだろうか。「闇の美しさ」という感性を、我々はもはや失ったのであろうか。
 「闇なくて出るに出られぬ物の怪かな」

<2006年1月14日>    「声と言葉の時代」
人間の声はいい。数百年前の人間がどのような声をしていたのか知る由もないが、少なくともこの百年くらいはあまり変わっていないだろうと思う。唐突だが、私はクラッシックの「ミーハー」だが、オーケストラの技術や表現力は昔よりかなり進歩したと思う。録音技術の進歩もあるのだろうが。しかし、人間の声ばかりはそうでもない。半世紀も前のデルモナコのテナー、マリアカラスのソプラノ(通に言わせると正確にはメゾソプラノだそうだが)は、古いモノロクでも十分に美しい。現代の歌手に勝るとも劣らない。和物でいえば、故柳家小さんの江戸弁の括舌の良さは小気味いいだけでなく、その声のよさにうっとりする。声の艶という点で言えば、初代広沢虎蔵の浪花節も相当である。とてもできるところではないが、まねして一節うなってみたい気分になることもある。
 落ち込んだときは、人間の声を聞くに限る。
もっとも、人の声が騒音になることも、私ならずとも経験されるところであろう。「笑い」があふれているのも現代だが、「声」もまたあふれている。言葉を発し続けていないと不安になるという人種もいるらしい。それもまた個性でよいが、願わくば「美しく」、内容のある言葉であってほしい。でなければ、しばしば言葉の騒音、暴力になりかねない。
 それで思い浮かぶが、ディベートという相手を言葉で黙らせるという種類の手法が一定の価値を得ている。きちんとした自己表現で相手を説得することは、日本人の苦手とするところと指摘されるが、とにかく「言い負かす」という文化はいかがなものかと思う。ディベートにはディベートのの本質的価値があるのだろうが、生半可な理解で自己主張の道具にする愚は避けるべきであろう。
 話上手は聞き上手であろう。、その逆もまた真であろうと思うし、私もその極みに近づきたいと思う。

<2005年9月23日>
 9月17日(土)、休診させていただき「第11回関節炎・リウマチセミナー」に出席して来ました。昨年も書きましたが、年1回開催され内科、整形外科の先生でリウマチを専門にしているドクターのクローズドの会です。参加者全員の講演が基本で、私も話題提供してきました。準備に時間もかかり、プレッシャーも感じますが、臨床医としては必要な刺激を受ける場だと思っています。

<2005年7月20日>
 7月16日(土)、臨時休診とさせていただき、「第26回リウマチセンター間連絡会議」に出席して来ました。この会は、まだ「リウマチ科」が標榜科として認められない時代から、院内でリウマチ科、リウマチセンターを名乗っていた施設同士の情報交換と臨床研究を兼ねた会として出発しました。私が多賀総合病院でリウマチ膠原病センターを立ち上げた平成4年(1992年)も、まだ院外に標榜できる「科」としては認められておらず、少し肩身の狭い思いもしました。私は、その翌年、1993年からこの「連絡会議」に参加しています。全国のいろいろな先生と知り合うことのできる貴重な会です。


<2005年7月8日>   「笑いの時代」
 ミレニアム、20世紀が終わろうとするころ、ある新聞メディアが面白い企画を立てた。この1000年間、つまり西暦1001年から2000年の間、人類にとっての十大事件(つまり10個に限定するとすると)は何だったのだろうか。様々な人は様々な出来事を挙げている。キリスト教文化の普及、ルネッサンス、ワットの蒸気機関の発明と産業革命、アインシュタインの科学、等々みな「なるほど」と思わせるものであった。私などは、フロイトという巨人の出現は絶体にはずせない事件であったと思う。意識の下に無意識などという存在を想定するすること自体、今日では当たり前と考えrられているものの、まさに空前絶後の思想的転回であったと思う。脳の科学、生理学がどこまで進捗しているのかよくわからないが、この無意識という厄介な代物をサイエンスとして証明する日がくるのであろうか。むしろ神の領域の命題であるような気がする。フロイトの「夢判断」が出たのが1900年、人間のある種の思想的革命が始まった年として評価される得る。
 閑話休題。、その1000年の間に起こった重要な出来事の一つに、ある識者が「笑う文化の確立」ということを挙げており、大変面白かった。たとえば、平安期の日本においても、笑うという行為は必ずしも上等な行為ではなかったように思われる。笑いの文化は確かに人間の文化、文明の進展と歩調を合わせる形で、その地位を確立してきた印象を受ける。
 今や、まさに笑いの時代である。巷には笑いがあふれている。愛嬌のない男はもてない。私もそうだが。接客といえばまず笑顔、病院でも接遇は笑顔と笑い。しかし、このあふれんばかりの笑いの文化は、いったいどこからきたのだろうか。かたや、ロシアのプーチン大統領のようにめったに笑わない能吏のような指導者もいる。仕事中に笑う顔を見せることをネガティブに考える文化もある。今、日本で氾濫する笑うことの文化を、アメリカンスンタンダードと断ずるつもりはないが、少なくともグローバルスタンダードではない。
 大切なことは、笑う、あるいは笑顔を作ることを自己目的化することではなく、人に嫌な思いをさせないトータルな「態様」だと思う。そこでは、大きな「人間力」が問われていると思うのだが。


<2005年3月10日>
 去る3月5日(土)、午後休診とさせていただき岐阜市で講演をしてきました。岐阜市の整形外科の先生方が中心となっている会で「2005年痛みと炎症」という会です。岐阜大学を中心に開業医の先生も含め60名程度の参加者でした。私に与えられたテーマは「関節リウマチの薬物治療の変化と今後」で、今後に登場する抗リウマチ薬であるT-614、タクロリムス(FK506),生物学的製剤であるエタネルセプト等の話を紹介しました。T-614やタクロリムスは、私が多賀総合病院在職中に治験業務に係わった薬剤です。演題名のとおり、関節リウマチの治療は、今日大きく変わろうとしています。


<2005年1月4日>   「2005年の時代」
新年おめどうございます。皆様かたのご多幸を祈りあげます。
おかげさまで開業2年目の春を迎えることができました。今年もよろしくお願いいたします。

 特に新年というわけではない。この何年かずっと気になっていた言葉を紹介したい。「愚直」と「誠意」。
 もう20数年まえの話になるが、私の友人が、自身の結婚式の最後に「これからも愚直に生きることを誇りにしていきたい」という意味のあいさつを述べた。彼流の決意表明であったのだろう。愚直という言葉が耳新しく、その後も印象に残った。
今、決してメジャーではない「創」という雑誌の編集長として愚直に生きている。

 誠意という言葉は、2人の老医師(失礼、先輩医師)から発せられた。1人は、私の開業にあたって、「結局、臨床医は誠意を持って患者をみるしかないわけです」といったことばを寄せてくれた。1人は、ある団体の役員の就任に際し、「力もなく才もなく、誠意を持って事にあたるだけです」という意味のことを述べられた。

 当たり前すぎる単純な言葉であるが、今の時代ほど愚直とか誠意という言葉が輝きを失った時代はないのではなかろうか。
 2005年の時代は、こうした言葉の復権の年の始まりであって欲しいと思う。少なくとも、私自身の中では復権させよう。


04年10月12日>
 10月10日(日)、横浜で開催された「第3回日本リウマチ実地医会」(当番世話人、「新横浜クリニック」山前邦臣先生)にパネラーとして参加して来ました。レミケード、アラバ、その他の生物学的製剤と、私に与えられたテーマは「その他のDMRADs」ということで20分間の講演を行いました。MTX,今後の新しいDMARDとしてのFK506,T-614,シクロスポリンなどについて述べてきました。その後のパネラー4名とフロアーからとのディスカッションも活発でした。参加者は、全国から100名にものぼり刺激的な会でした。改めて浅学の身であることを認識し、今後の思いを新たにしました。


<<04年9月20日>
 9月18日(土)、臨時休診とさせていただき、松山市で行われた「関節炎リウマチセミナー」に参加してきました。松山赤十字病院の山本純己先生を中心とした会で、昨年まで「松山セミナー」といっていました。クローズドの会で全国から約20名程度の「そうそうたるメンバー」が集まります。私も10年ほど前より、年1回のこの会の末席に参加させていただいています。全員講演が原則で、テーマは何でもよいのですが、関節リウマチの最先端の話題から、通常の学会ではなかなか話できないような話題、更には、あまり医学と関係のないと思われるような話題まで、内輪の会という気安さも手伝いエキサイティングなフリートーキングの会です。
私も1題、RAの話をしてきました。こうしたユニークな会が続いているのも山本先生のお人柄によるものだろうと感じています。

<04年8月26日>    「昭和45年の時代」
 昭和45年、1970年は私にとっては、特別な、大袈裟にいえばエポックメーキングな年である。1970年といえば、大阪万博が開催された年であり、三島由紀夫が自衛隊基地内で割腹自殺した年でもある。この年、私は東北大学教育学部に入学した。ころは、大学紛争の真只なかであり、否応なくその流れに身をおくことになる。それまでは、よく言えばごくまっとうな、悪く言えばほとんど何も考えず高校と家を往復する毎日であった。大学入学以降、まがりなりにも自分の頭でものを考えるようになり、まがりなりにも自分で行動するようになった。今の自分に「精神性」というものがあるとすれば、その形成のスタートは間違いなく1970年である。
 合格発表と同時に、大学の教務課に出向き「下宿屋」を紹介してもらうこととした。今なら他の探し方もあろうし、時間をかけて探すという根気もあったろうと思う。
当時の「精神性」は、即断即決であった。紹介された何軒かの下宿屋のうち、最初に見たAさんという下宿屋をその場で決めた。5畳半(中途半端な形の部屋に惹かれたのかもしれない)、2食付確か6000円だったと思う。家は、3つの下宿部屋があり、2階に2つ、1階に1つと台所兼食堂。あとで知ったことだが、3つの部屋に入ったのは、いずれも私と同じ新入生であった。下宿屋の主人は昼間も家にいて何をしているかよくわからない人、奥さんは明るく食事を作ってくれる人、子供が3人いて、一番上のS実ちゃんは小学5年生ぐらい、その下にワイルドキッドとまだよちよち歩きの女の子、そして一番存在感があったのは、明治生まれのおばあちゃん。どうもこのおばあちゃんが、この家の実権を握っていた(と思われる。)
 家そのものは古い木造2階建て、おせじにも見栄えはしない。しかし、家の人たちは、こういう言い方はあまり好きではないが、東北人らしい人のいい方たちであり、気持ちよく生活させていただいた。食堂の水槽には、癒し系の金魚やどじょうが泳いでおり、いつも優雅な泳ぎをみながら3人食事をしていた。ある晩、水槽には金魚だけが遊泳しており、どうしたかなと思っていtら、翌日の朝食は「どじょう汁」であった。複雑な思いで食べたのを覚えている。朝の食事のおかずに「ほやの酢の物」がでたのも忘れがたい。
 閉口したのは、「トイレ」で、汲み取り式であることは、私の年代は小さいころは皆そうだったわけで別に違和感ななかったが、またがる台がギシギシ今にも抜け落ちそうな恐怖的感覚にはなじめなかった。以後、大学の帰りに一番丁の「三越」に立ち寄り、用を足すことが日課となる。もう一つは、おふろである。とにかく6人(つまりおばあちゃん、ご夫妻、3人の子供)のあとの入浴であるので、想像のごとく湯はかなり痛んでいるのは仕方ないといえば仕方ない。それをカバーするためか、湯の温度は指が入らないほど熱い。下宿人の分際で、大量の水を使うわけにもいかず、あれやこれや3人で相談して歩いて20分ほどの銭湯に通うこととした。
南こうせつの「神田川」の流行っいた時代で、仙台の寒い夜は入浴後でも体の芯まで冷えた。3人の男の連れ立っての銭湯通いは、わびしくはあれ美しいものではない。
 この家での1年間の下宿生活の後、別に相談したわけではないが、3人とも下宿を変わることとなった。引っ越しの日、一番上のS実ちゃんが「本当に引越しちゃうの?」というメモ書きを部屋においていた。(しゃくだが、私の部屋ではない)
 後日談がある。1992年ごろ学会があり、東北大学卒業後はじめて仙台を訪れた。仙台を離れて16年ぐらい経っている。最初に下宿した家が懐かしく車で探してみたが、とにかく道路は全く変わっており、家があったとおぼしき所は区画整理で何もなく、ただ隣に「S美食堂」という店が建っている。もしやとドキドキしながら店に入り、ラーメンなど食べ、帰り際年かっこうの似た女主人と思しき人に「もしかしてこのあたりでAさんという家はご存知ないですか」と聞いてみた。答えは全くの別人であった。事実は、ドラマほどロマンチックではない。


04年6月28日>    「新撰組の時代」
 
 NHKの大河ドラマ、「新撰組」が芹沢鴨の暗殺というひとつの佳境を迎えているようである。芹沢鴨役の佐藤浩一はいい。香取伸吾の近藤勇はどうだろう。沖田総司はどうだろう。堺某の山南敬助はそれなりの評判を呼んでいるようである。私らの年代人間にとって、新撰組を扱った映像としては、やはりかつて民放で放送されたTVドラマ「新撰組血風録」が圧巻だろうと思う。栗塚旭の土方歳三、沖田総司の島田順二などまことに存在感が強い。役者名は定かでないが、近藤勇、永倉新八、山南敬助らを演じたものたちも、今でも瞼に鮮明である。
 当時の役者と比べ、今の大河ドラマの役者たちは一回り近く若返っている。それが何となく違和感になっているのかもしれない。新撰組の活躍の中心となったのは、20歳台後半から30台の人間である。今の時代感覚から言えば20台は青年であろうが、当時の20台はもはや成熟した大人としての壮年である。昔は15歳で元服、成人になったのであるから、今の年齢の0.7かけということになる。30歳の近藤勇は43歳ぐらいの壮年男子である。この辺の時代年齢のギャツプについて脚本家も演じている役者も感覚として希薄である。新撰組の時代は、断じて青春ドラマではなく中壮年ドラマである。
 新撰組が成立したのが、江戸末期の文久3年、同じころ東方では清水の次郎長が跋こしていた。講談に言う「森の石松の仇討ち」は文久3年12月である。幕府の警察権力としてのタガが崩壊するのと期を一にしている。一方、京では会津藩直轄の特殊警察「新撰組」が成立するわけである。新撰組の時代は、この特殊警察と革命軍との暗闘というのが歴史の真実に近いのであるまいか。
 閑話休題。今の年齢の0.7かけが昔の人間の実年齢である。ことばを換えて言えば、今の時代はゆっくり大人になるのかもしれない。60、70歳台の方をおじいさん、おばあさんと言ってはいけない。70歳は昔で言えば50歳、まだまだ壮年、これからもう一度公私ともに活躍できる年代である。その伝で言えば、私などまだ30歳半ば、鼻たれ小僧である。



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